二十五の峰、空高く♪

~標高850mの故郷 『栃洞』の想い出~

「栃洞への交通路」にいただいたコメントまとめ

偶然立ち寄りました
偶然このブログに立ち寄りましたので、、、
わたしも昭和53年まで21年間栃洞で仕事をしていました。
生まれと育ちは、茂住、大津山 そして鉱山高校、聳南寮、南平社宅と、、、
おかげで、東町から乗っ越し~前平の道はよく歩きました。
宮下で宴会の後、タクシーが雪で動かないので、雪道を歩いて登ったのも何度か、、、懐かしい思い出です。

オラケタル URL 2011-06-17 [ 編集 ]


オラケタルさま
コメントをいただき、ありがとうございます。
懐かしい地名を拝見し、嬉しく思いました。

大津山にも、いらっしゃったのですか…
私なんかよりも、もっと沢山の“想い”をお持ちのことと思います。

雪の、東町~前平 登りは、さぞかし大変だったでしょうね…。
タクシー会社に、栃洞まで行きたい旨を伝えると、拒否されるんですよね (^_^;)

私は、通洞と南平に住んでいました。

もしかしたら、お会いしたことが有るかもしれませんね (^^)v

 

るいちゃんぱぱ URL 2011-06-17 [ 編集 ]


No title
こんにちは。
私、まったく栃洞といってもわからないのですが、
このようなブログのつながりを拝見させていただいて
なんかいいなあ、と感じました。
きっとオラケタルさんとるいちゃんぱぱさん逢ってますよ。
(勝手にそう決めました)
面白半分 URL 2011-07-14 [ 編集 ]


面白半分さま
こんばんわ。

鉱山の閉山に伴って、沢山の人が、この地を後にしました。

私を含めて、新しい場所で生活を始めて何年経とうと、忘れられない。
そんな特別な場所なんです。

今は、廃墟マニアの聖地となってるみたいですけどね(^^ゞ
るいちゃんぱぱ URL 2011-07-15 [ 編集 ]


No title
懐かしい地名を見つけてビックリ、オラケタルさん元気ですね。
半世紀以上前の神高生のとき、坑内見学のために全員で栃洞に一度だけ登りました。
坑内は電車(?)やジープ(?)が走り回り、その規模と広さに驚嘆 !
その時登ったルートが①の東町からか②の病院のあるロクロ?六廊?からだつたかハッキリしませがーーー。誰かが撮ったその時の坂道での写真がありました。
みんな若くて元気で、つい最近のことのように思えてーーーホーロリ。

5年間お世話になった美山寮に12年前に家内と訪れましたら、若い寮生達が窓から身を乗り出して見ていました。
もう一つ、あの戦時遺産のような校舎も残っているのでしょうか。
見てみたいものです。
舘 敏夫 URL 2011-08-05 [ 編集 ]


舘さま
こんばんわ。
コメントをいただき、ありがとうございました。
舘さんも、神岡のご出身でしょうか(^_^)

同級生の皆さんと、1列に並んで、栃洞まで登山(?)されたのですね。
キツイ栃洞道を体験して、坑内も体験というのは、学校行事らしい企画でしたね(笑)

私の父は鉱山に勤めておりましたので、坑内の話をよく聞きました。
何かに有効活用できたらいいのにと思います。

神岡弁もすっかり忘れてしまいましたが、時々、無性に行ってみたく
なります☆
るいちゃんぱぱ URL 2011-08-05 [ 編集 ]


2011.05.29 栃洞への交通路 〈飛騨神岡〉
こんばんは?”栃洞会”の検索で貴ページを拝見しました。栃洞への交通路の詳細。本当に目に思い浮かぶほどの情景です。下の街の祭りには毎年、乗り越しを通って東町まで出たものです。”みずこば”?いかがなったものやら。懐かしいジーンとくるものがあります。4年前に栃洞に上がりましたが、警察署前から歩きで行きました。現在も、行くことは出来ます。兵どもの何とかの跡といいますが、寂しいものです。でも、最盛期の栃洞を知っているものにとっては、未だに瞼の中に鮮明に焼きついています。忘れることは出来ません。また、ポール・マッカトニーのファンということでもあり、私よりも先輩かもしれませんが、ほとんど同時代なのではないのかと思います。プロフィールが定かならないのが残念です。
私は昭和39年栃洞小学校卒業です。
八賀善明 URL 2012-08-15 [ 編集 ]


八賀 さま
こんばんは。
コメントをいただきまして、ありがとうございます。

以前、私も〝栃洞〟が懐かしくなってネットで検索したりしていました。
こんなふうに、〝栃洞〟を検索される方が、他にもいらっしゃるのでは
ないかと思い記事を書いてみました。
〝栃洞〟という場所への、この特別な思い・感情というものは、
住んでおられた方々、皆さんがお持ちではないのかなと思っています。

私も3年程前に、警察署前まで行きました。
覗いて見た、その先の風景は、記憶に残っているものとは
全く変わってしまっていて、もっと進もうとは思えませんでした。

私は八賀さんより、かなり年下になります。
ただ、3~5年、上の方で、同じ苗字の先輩(女性)がいらした
ような記憶もあります。

八賀さんから、こうしてコメントをいただけて
ブログで、この記事を書いてみて良かったなと思いました。
本当に、ありがとうございました。

るいちゃんぱぱ URL 2012-08-16 [ 編集 ]


No title
こんばんは?コメント有難う御座います。
”〝栃洞〟という場所への、この特別な思い・感情というものは”。
これを大事にしたいですね。通洞のアパート社宅も、銀嶺荘もあります。
往時を偲ぶものが未だにあるが、そこに住んだ人は誰もいません。
痛切なる思いを禁じえません。これからも貴HPを訪問する方がいるかと思います。共通の思いを抱いている方とのコンタクトを大切にしていきたいですね。なお、私は”前平”にいました。小中学校から1番近いところから登校していたのでは?と思います。
るいちゃんぱぱは53,4年ころの小学校卒業かもしれませんね。わかりませんが。
私の手元にある”栃洞校史”によると小学校閉校が58年ですね。それからもう30年経ちました。
八賀善明 URL 2012-08-17 [ 編集 ]


八賀 さま
おはようございます。

八賀さんのいらっしゃった頃は、まだ栃洞小・中学校の児童・生徒数
が多かったのでしょうね。
昭和33年頃が最高で、1000人を超えていたという記録を見た
ことがあります。

私の頃は、次第に人数が減ってきて、学年に1クラスづつ、
3列あった校舎も、中央の建物が撤去されて、グランドに
なりました。
運動会も、鉱山のグランドで行われていたのが、新しく出来た
校舎グランドに移りました。
おかげで、イスを運ぶ距離も短縮されて、
嬉しく感じた記憶があります。

私は、通洞の鉄筋アパートに住んだ後、南平のお寺の下の
社宅に住んでいました。
Youtubeなんかで、通洞アパートがツタで覆われた様子を見ると
自分がそこに住んでいたのが信じられない気持ちになります。

現在、住んでいる団地に、栃洞の、しかも同級生が住んでいます。
この前、すこし話をしていて
「何で、あそこに住んどったんやろーなぁーあ」(神岡弁で)
と、しみじみと語っていました。
この言葉が、栃洞に住んでいらした皆さんに共通した感情の
1つかもしれませんね。

運動会の応援歌の歌詞を、今でも覚えています。

二十五の峰、空高く
小春の日照る校庭に
鍛えし腕(かいな)練りし脚
いざや競わん堂々と♪

猛吹雪の日に、一瞬、息が出来なかった記憶も
一生消えることがないと思います(笑)

るいちゃんぱぱ URL 2012-08-18 [ 編集 ]


No title
るいちゃんぱぱ さま
こんばんは。たびたび来訪いたし恐縮です。
今回のご返信も胸にジンと来るものがあります。
有難う御座います。

当方、昭和33年最盛期が小学校入学でした。
四柱神社の祭り、そして盆踊り、
通洞、泉平、前平、南平それぞれの盆踊りがあり、
仮装行列もありで、盛況でした。
前平銀座??、大体何もかもありました。賑やかだったと思います。
すべては最高の時期だったのでしょうね。

鉄筋アパートは水洗でした。
あの時代であのヤマの上で信じられないものがあります。
多分山は山でも最高の生活環境だったのではないかと思います。
雪深いところを除きですが。

我々の時代は朝、猛吹雪のときは電気がぱっかぱっかと点滅して、
休校を知らせてくれました。
わたしは前平でしたから学校が近くでしたが、
今思うに他の地区の下から上がってくる、
みずかんぼら?とか、いずんびら?の子達は大変だったでしょうね。

ところで、最近知り合った方で、通洞にいた方で、
やはり途中から神岡の街から上がった方がいます。
ひょっとしたら同時代?かと思います・・・。ご存じないでしょうか?
八賀善明 URL 2012-08-19 [ 編集 ]


八賀 さま
おはようございます。

八賀さんのいらした頃が、栃洞の一番盛り上がっていた時期
かもしれませんね。
春のお祭りの頃に、やっと桜の花が咲たり…
夏の盆踊りの頃は、もう夜は少し肌寒かったり…
栃洞にいた頃の季節感が、今でも体に染付いていて
抜け切れないのが不思議です(苦笑)

鉄筋アパートは水洗トイレでした!!
神岡の街から、栃洞に引っ越すことになり
泣いて嫌がる私に、母親が言った言葉が
「今度の家は〝水洗トイレ〟なんやよ」でした。
いろんな記憶が、蘇ってきます。(懐)

前平は、栃洞の〝ニューヨーク〟的な存在でしたね♪
駄菓子屋さんで遠足用のお菓子を買ったり
郵便局で記念切手を買ったり。
他地区に住んでいながら、
お風呂やお寺の近くにあったプール(実際は防火貯水用?)にも
行きました。

吹雪の朝の休校のお知らせが電気だったんですね。
私の頃は、外で「お猿のカゴ屋」が流れるとお休みでした。
私も通洞でしたので学校に近かったのですが
泉平や、特に南平から番屋坂を上がってくる子達は
さぞかし大変だったろうなと思います。

神岡の街から通洞に引っ越して来られた方の件ですが
私の世代の近辺では、いらっしゃらないような気がします。
私の母なら知っているかも、しれませんので
今度、聞いてみます。

栃洞に住んでらっしゃた方って
とても沢山の方が、いろんな所に移り住んでらしゃるのでしょね。
意外と、近くに〝栃洞出身〟という方がいらっしゃる…。
そういうものかもしれませんね。

るいちゃんぱぱ URL 2012-08-19 [ 編集 ]


標高850メートルの世界
こんばんは
ある意味、なに不自由なく暮らすことが出来た場所でした。
鉱業の最盛期は、もっとも優秀な学生が鉱山会社に入社したと聞いています。
今考えて見ますと、凄いところに住んでいたのだという感慨ひとしきりです。
それが標高850メートルの世界でした。
「何で、あそこに住んどったんやろーなぁーあ」
この感覚、皆さんがお持ちなのかもしれません。
それにしましても、るいちゃんぱぱはいろんな記憶が、強く残っていますね。
感心ひとしきりです。嬉しいものがあります。

手元にある”栃洞校史”によりますと、
”栃洞小学校卒業名簿”から把握できるもところでは、
卒業生3006人だそうです。昭和58年が最後なんですね。
その間の中途在校生も含めると、5000人を越えると記してあります。
>意外と、近くに〝栃洞出身〟という方がいらっしゃる…。
本当にそうなのかもしれません。

私にとって、栃洞は、神岡の街に行った限りは、
登らざる負えない空間です。
何もなくなっても、警察署前まで登れる限りは、
行くのでしょうね。
八賀善明 URL 2012-08-21 [ 編集 ]


八賀 さま
おはようございます。

そういえば、ウチにも”栃洞校史”が…と思い立ち
本棚から引っ張り出してきました。
他の方にとっては何でもない物ですが
私達、栃洞出身者にとっては、とても貴重な資料ですね♪
この1cmほどの厚みの中に何十年分の思い出が
詰まっているんですね。

この書の中で、以前から気になっている項目があります。
15ページに写真付きで、説明書きに
〝北盛〟〝旧栃洞〟という言葉が出てきます。
1度も聞いたことのない言葉です。
もし、ご存知でしたら、お教えいただけますでしょうか。

運動会応援歌に〝第2〟もありましたね。(懐)

雲は飛ぶ飛ぶ二十五の峰~♪
運動会の歓声や高まった気分が蘇ってきます(^_^)
るいちゃんぱぱ URL 2012-08-22 [ 編集 ]


栃洞校史
るいちゃんぱぱも本棚にあるのですね。
お互い共通のデータベースがあるということで、話は分りやすいです。

そうですね。”旧栃洞”?私も、どういうことかと思っていました。
昔は前平地区を中心に発展してた時代があったようですが、
一時、写真の右側の文中の”北盛から二十五山”の白い部分の、
”大富”地区が社宅も多くあり、中心的な地区の時代があったようです。
伊西へ向かう道路の左上の地域というんでしょうか?
それで、大富が中心となった結果、
前の地区は”旧栃洞”と表現しているのかもしれません。
以上推測です。一度、古い人に聞いて調べてみます。
八賀善明 URL 2012-08-23 [ 編集 ]


“旧栃洞”
こんにちは?
少し、聞き取りました。

写真は”明治35年頃の栃洞”(全体としての栃洞)ということで、
現時点から見れば、その”35年時点”の”旧栃洞”の意味のようです。
二十五山の下の白いところ。たぶん、この頃は狭い範囲を称していたのでは?ないかと思います。
また、写真は、それ自身を客体としてみて、写真に向かって左側が、客体としては、文中で表しているところの”右側が北盛から”となります。
明治期鉱山創成期は、南平の変電所、寮下の栃洞抗口から始まり、写真の向かって右側の大富、東平地区が発展し、多くの社宅等があったようです。前平はその後のようです。
その後、写真に向かって左側の北盛地区のスリバチ山から蛇腹にかけての地区に、通洞口、いわゆる円山抗が出来たようです。泉平は戦後に近いところからのようです。

精細に欠けるところありますが、概ね以上のようです。

蛇腹でもスキーを滑った記憶がありますね。
八賀善明 URL 2012-08-24 [ 編集 ]


八賀 さま
こんばんは。

〝旧栃洞〟につきました、詳細にご連絡いただき
本当にありがとうございました。

週末に、八賀さんからいただいた解説と写真を
じっくりと照らし合せながら楽しもうと思います(^_^)

〝蛇腹〟という地名も初めて聞きました。
泉平の下の方かなとか、通洞の上の方かなとか
想像してわくわくしています♪
るいちゃんぱぱ URL 2012-08-24 [ 編集 ]


No title
るいちゃんぱぱ様 八賀様 有難うございます。前平出身です。八賀様は亡くなった兄と同級生です。(町病院での輸血による血液感染で享年39歳で他界) 山の景色といいうものは本当に良いですね。本日、妻と愛犬とで香嵐渓に行きました。紅葉には早かったが、五平餅はおいしかったです。ところで、今年の豪雪でお宮さん倒壊の情報をWebで得て大変寂しい限りです。また、先週はタイ出張(仕事)で宗教大切さを味わいました。今後も栃洞で得た人への優しさを大切にして頑張りたいと思います。
岡崎市在住 URL 2012-10-14 [ 編集 ]


岡崎市在住 さま
こんばんは。
コメントをいただき、ありがとうございます。

栃洞に住んでいらしゃった方が、交流できたら…と思いながら
この記事をブログに書きましたので、とても嬉しく思っています♪

私も、この時期になりますと〝紅葉を見に〟と言いながら
実は山のある景色を行きたいのが本心のような気がします(笑)

今はもう無くなってしまった故郷ですが
栃洞の記憶を持っていらっしゃる方々の心の中に
私の故郷があるようで、とても幸せな気分です。

ブログをやっていて良かったと感じた1日となりました。
本当に、ありがとうございました(^_^)


るいちゃんぱぱ URL 2012-10-14 [ 編集 ]


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2012-10-24 [ 編集 ]


10/24の鍵コメさんへ
こんにちは。
コメントをいただき、ありがとうございます!!

〝栃洞〟を懐かしんでネット検索された方に
この記事を読んでいただけたらな~と思っていましたので
とても嬉しいです♪

またいつか、〝栃洞〟のことを書きとめたいと考えていますので
よろしければ、また覗いてくださいね(^_^)
るいちゃんぱぱ URL 2012-10-24 [ 編集 ]


いちやまの坂
こんばんは初めまして
久しぶりに栃洞幼稚園で
検索して神岡を調べてました

父が 鉱山に勤めていて
お弁当を届けてました

土曜日の夜になると鉱山の事務所 右手の明かりに集まる 甲虫を取りに行っていました

家は かみくずのおじちゃんのお店のすぐ裏側でした
あの おじちゃんは手品が好きな人でした

雪が降ると
通称「いちやまの坂」でソリに乗り遊んでいました

あの(田口?)駄菓子屋の 独特な匂いと白い布のカーテンを思い出します

確か 防火水槽みたいな場所の前辺りに ミシンか何かで裁縫をする会社みたいなのがなかったかな?

鮫島さんとか中川さんとか

その側に 半分だけ
ガラス戸扉の
ラーメン屋さんがあり
そこにアグネス・ラムの写真が飾ってあったょ

小さな時 お尻に注射を
打たれて嫌嫌泣いてたら
看護婦さんが 終わってから 煎餅をあげると言ったのに 結局くれなかって そこで更に泣いて帰ったとか

幼稚園の下の畑の
おじいちゃんと一緒に
芋掘りしたのが楽しかった
鈴木の床屋さんとか
なんか懐かしい
あそこの柴犬 怖かった
のぶ君 URL 2012-10-28 [ 編集 ]


のぶ君 さま
おはようございます。
コメントをいただき、ありがとうございます!!

私も、以前いつもパソコンで栃洞を検索していたんですよ。
ですから、こうしてコメントをいただいて、とても嬉しいです。

懐かしい場所やお名前が、
私の頭の中にパ~っと広がりました(^_^)

そうそう、ラーメン屋さんで1回だけ食べたことあります。
「いちやまの坂」って、クリーニング屋さんと、2階建ての社宅の
間の道の先にある急な坂かな…etc


のぶ君さんの、素敵な想い出をうかがって
私の栃洞で過ごしたあの時間も
とても価値あるものに感じています。
ありがとうございました。

よろしかったら、また覗いてみてくださいね。
るいちゃんぱぱ URL 2012-10-28 [ 編集 ]


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2012-10-28 [ 編集 ]


10/28の鍵コメ さま
こんばんは。

栃洞の懐かしい思い出が
ご家族の間でも話題に上がって
私としてもとても喜ばしく感じています。

ここにコメントを下さっている方の中にはお名前を
クリックするとメールフォームが開く方がいらっしいます。
もし、よろしければご利用なさってください(^^♪

このブログが、栃洞の思い出を共有される方々の
交流できる場になれば嬉しいです♪

るいちゃんぱぱ URL 2012-10-28 [ 編集 ]


前平銀座?
るいちゃんぱぱ様、ご無沙汰です。なかなか、やはりみんさん検索しているようです。このブログを見た人がいて、私にアクセスしてきました。そこで久しぶりにブログです。岡崎市在住様。そうですか?記憶をたどっております。前平出身で若くして他界。いわゆる”前平銀座”の方でしたか?このブログ。栃洞ネットワークというのもいいですね。懐かしさを共有したいものです。
八賀善明 URL 2012-11-27 [ 編集 ]


八賀善明 さま
こんばんは。

お久しぶりです。
寒くなりましたね、神岡の方では雪が降ったと聞きました。

栃洞校史を見ていて気付いたのですが
私の従兄が、もしかしたら八賀さんと同級生かもしれません。
見間違いかもしれませんので
もう1度確認してみますね(^_^)
るいちゃんぱぱ URL 2012-11-27 [ 編集 ]


いちやまの坂 Ⅱ
るいちゃんぱぱの従兄が?同級生?吉報をお待ちします。

のぶ君様。はじめまして。いちやまの坂!いちやまとはちががあり、
まさしく私の家はそこです。クリーニング屋さんの対面です。
冬はすきーとそりでした。
水で固めてジャンプ台を作ったこともありましたね。

かみくずのおじちゃん!懐かしいですね。ウナギをさばいているのをよく見ていたものです。
かみくずの裏となりますと?いちやまとはちがになりますが?
田口の駄菓子屋さんでは団子も売ってました。うまかったですね。

よしい、かみくず、すずき、やまだ、信用金庫、ほこのき、やまぐち、
そして田口、キャバレーもありましたね。
八賀善明 URL 2012-11-28 [ 編集 ]


いちやまの坂 Ⅱ Ver.
お世話になっております。
今回ブログは懐かしい話がいっぱいでした。感激です。
ところで、修正です。上記件名のテキスト中の「クリーニング屋」を「パーマ屋」に訂正です。
クリーニング屋は焼却場の手前でした。
これからも栃洞話が華やかになるのを期待しております。よろしくお願いいたします。
るいちゃんぱぱさんのブログの主テーマから外れるかもしれませんが。
八賀善明 URL 2012-11-28 [ 編集 ]


八賀善明 さま
こんばんは。

通洞に住んでいましたので、部分的にしかわかりませんが
いろんなキーワードを拝見して楽しい気分になりました。

いちやまの坂というのは
学校の体育館側から来て、左手に2階建ての社宅を過ぎ
かなり急こう配の坂道でしょうか?
登りきるとT字交差点で、右折するとカシマメ。
左折すると前平銀座へ。

キャバレーがあったというのも、初めて知りました(^_^)

るいちゃんぱぱ URL 2012-11-28 [ 編集 ]


急こう配の坂道です。
こんばんは。
小学校時の記憶では、急こう配ですが、
4年ほど前に登りましたが、なだらかな坂です。
今は草がぼうぼうで、体育館からは草を分け入って入らねばならぬそうです。
八賀善明 URL 2012-11-29 [ 編集 ]


八賀善明 さま
こんばんは。

子供の頃は急に感じた坂道も
大人になってから同じ場所へ行ってみると
それほどでもないのかもしれませんね。

以前、おしえていただいた〝蛇腹〟という場所なのですが
その後ネット等で調べても今ひとつ理解できていません。
スキーのできる場所とのことですね…。
お時間のある時で結構ですので
おしえていただけますでしょうか。
るいちゃんぱぱ URL 2012-11-29 [ 編集 ]


蛇腹?
記憶違いかもしれません。
スキーのできる場所は”蛇腹”でなく、”おおずりだし”かもしれません。
すこし古老に尋ねたいと思います。
また、”栃洞”でネット検索している方は多いかと思いますので、
どなたか知っている方が、たどり着ければいいのですが・・・。
すぐたどり着けるはずですが。
たぶん、オラタケルさんは、ご存知かもしれません。

蛇腹?通洞から”笈破”へ行く途中の地域?
いずれにせよ、昔の神岡鉱山の鉱区で”蛇腹平”というのがあったようです。
鉱区請負人が鹿間地区のようですので、鹿間の上あたりが想定できるかもしれません。
八賀善明 URL 2012-11-30 [ 編集 ]


八賀善明 さま
こんにちは。

”おおずりだし”という名称も初めて聞きました(^_^)
自分は本当に栃洞に住んでいたんだろうかと
思わず1人笑ってしまいました。
〝スキーが出来る場所〟と〝ずり〟というキーワードから
学校と通洞の中間部の二十五山中腹で
石がゴロゴロしている地点かなと想像しています。
しかし、かなりの上級者向け斜面ですね。

〝蛇腹〟については、ネット検索してみると
神岡鉱山の初期に採掘を開始した場所のようですね。
しかし、具体的な場所までは記載されたものは
ありませんでした。

ますます、自分の育った場所に謎が深まります。
記憶を蘇えらせたり、イメージしたり、ネットで調べたり
とても楽しいものです♪

また、何かわかりましたら
おしえてくださいね(^^♪
るいちゃんぱぱ URL 2012-12-01 [ 編集 ]


No title
私の中学生の時代に通洞の上当たりにスキー場が出来ました。それまでは「いずんびら=泉平か鉱山グランドと学校の間の坂」がスキー場だったと思います。いちやまの坂はさすが距離が短いですね。(笑)クリーニング店は「谷口クリーニング」だったと思います。私は前平銀座(笑)の出身で、小学校低学年では巣の内さん本屋に行ったり、家の前の上口呉服店の娘さんと遊んだりしたものです。その後、山田さんのところがスーパになったり、病院跡に神岡物産が出来たりと楽しく良い時代を過ごせました。盆踊りの「さぁさお手々をポポンがポン」という曲が未だに脳裏に蘇ります。
岡崎市在住 URL 2012-12-01 [ 編集 ]


岡崎市在住 さま
おはようございます。

私の小学生の頃、中学生の人達がポールを立てて
通洞の上の急こう配でスキーをしていました。
私などは、とてもとても出来る場所ではなかったですw。

泉平のスキー場は、小学校の時に1回だけ行きました。
かなり下の方なので、行ったのはそれっきりですw。

それからしばらくして
鉱山グランドわきの階段が冬場にスキーが出来たのですが
鉱山社員寮まで土盛りをしてなスキー場となりました!
たしかナイター設備もあったはずです。
その横には新プールもできて、ちょっとしたスポーツエリアでした。

物産は抗口の所にあったものが、前平に移ったんですよね(^_^)

 

るいちゃんぱぱ URL 2012-12-02 [ 編集 ]


るいちゃんぱぱさま 八賀様
るいちゃんぱぱは光円寺近くにも住んでみえましたのですか。購買部(物産)がありましたね。南平の和佐保の辺りには魚釣りやかぶと虫採りにもよく行きました。通洞アパートもよく遊びに行きました。先端の水洗トイレは羨ましかったです。いちやまの坂は市山さんだと思っていましたが、八賀さんだったとは。(笑)上葛さんに上がる細い通路がありましたね。いちやまの坂を更に徒歩で上がったところの荒引茂さんによく遊んでもらいました。笑顔の素敵な5歳上のお兄さんでしたが引っ越しされてしまいました。荒引さんは八賀さんと同級生ですね。ところでNET検索で新木輝雄元栃洞教職員の話題を見つけました。高山で剣道を教えてみえるそうです。小生も剣道を教わりました。尊敬する栃洞中学校の先生の一人です。
岡崎市在住 URL 2012-12-02 [ 編集 ]


No title
蛇腹が分かりました。
通洞の北のほうの“変電所”を降りて、
“笈破”(おいわれ)方面へ向かう中間点に峠があり、
その峠を蛇腹峠というそうです。
その峠の左側を“蛇腹”、右側を“円山”というそうです。
円山坑口がありますが、蛇腹と繋がっているそうです。
三井になってから円山坑口だそうです。
私も通洞はほとんど行ったことがなく、
地理的なイメージが今少しはっきりしません。
るいちゃんぱぱさんは、イメージすることができますか?

通洞の上のほうを“北盛”(ほくせい)地区といい、
すりばち山、蛇腹があるというようですね。

ところで、岡崎在住様。上口呉服店が家の前でなく、左隣が上口呉服店ではなかったですか?それにしても、「上葛さんに上がる細い通路がありましたね。」小学校から前平銀座へ上がる近道?ですかね?(笑い)。本当に懐かしいものです。その右側が公衆浴場でした。私がいたときは黒崎さんでした。

なお、いちやまの坂はやはり市山さんです。私のところは下りきったところにありました。パーマ屋さんが対面ですからね(笑い)
八賀善明 URL 2012-12-02 [ 編集 ]


No title
八賀さま 「おおずりだし」はスキー場の地名のような気がします。何故なら同級生に大角(おおすみ)君がおり、近い名前だったような(笑) 細い通路とは上葛さんから八賀さんに降りるところになります。浴場の石炭置き場がありましたね。(石炭燃料の時はスス公害でしたね 笑)私の家は両田口さんの間でした。

るいちゃんぱぱさま
この間、めいの結婚式があり、その旦那が「Stand by me」をライブ演奏してくれました。旦那はベース担当なのですが、ベースは肝心要だなと思いました。私もビートルズ世代であり、ウイングスのLP盤などを買いました。しかし沢山あったレコード盤はどこへ行ってしまったのか。。
岡崎市在住 URL 2012-12-02 [ 編集 ]


八賀さま 岡崎市在住さま
こんばんは。

私も、前平の道はほぼ把握しているつもりでいましたが
〝細い道?〟〝近道?〟といろいろ記憶を手繰り寄せています。
あと一歩で点と点が結びつく的なところが、とても面白いです♪

八賀さま
遠足で1度、“笈破”(キーインしても漢字変換できないですね(笑))
に行ったことがあります。
〝蛇腹峠〟が何処であるか分かったような気がします!!
栃洞校史の27ページの上の写真(孔雀坂~)にて
写真中央上部に三角形の山があります。
その山の右の鞍部が〝蛇腹峠〟ではないでしょうか?
私の頃は、“笈破峠〟と呼んでいました。
そうすると、写真の解説とつじつまが合ってきます!!
(私は今、感動して、とても興奮しています)
“北盛”(ほくせい)地区も、あの辺りかなと分かりました!!
本当に、ありがとうございました♪
残る私の地理的疑問は、15ページの〝旧栃洞〟です。
そもそも、この写真はどこから撮影されたものなのか。
私の貧しい想像力では、国道41号線の鹿間よりさらに北部から
東側のハゲ山を撮影したように思えるのですが…。
でも、そんな場所を栃洞と呼ぶなんて…。
誠にお手数をおかけして申し訳ございませんが、
何かお分かりでしたら、お教えいただけますでしょうか(^_^)

岡崎市在住さま
通洞の水洗トイレは当時では最先端でしたね(笑)
その後、南平の社宅に移って
ポッチャントイレに毎日お世話になりました(再笑)
ウイングスをお聴きだったんですね(^^♪
とても嬉しい気分です。
私も沢山レコードを持っていたはずなのに
気がついたら3枚のLPレコードが壁に飾ってあるだけです。
3枚だけ残っているというのも
逆におかしなものですけど…(^^ゞ
るいちゃんぱぱ URL 2012-12-02 [ 編集 ]


三角形の山
こんばんは。
まさしくそうなのだと思います。三角山。
=蛇腹峠=笈破峠なのだと思います。
そしてその手前の左側の山が、”すりばち山”?というのではないかと思います。
15ページの写真は、おそらく、”大洞山”の中腹あたり上からの撮影ではないかと思うのですが。
真中が二十五山、左の白いところが北盛地区、
二十五山の下からの白いところが東平地区(このような地区もあったようです)、右側の白いところが大富地区というのかもしれません。
従い、二十五山の後ろが伊西?下之本?方面になるのかもしれません。
どなたか?確実なところをご存じな方の投稿が待たれます。
八賀善明 URL 2012-12-03 [ 編集 ]


八賀善明 さま
こんばんは。

いつも、いろいろと教えていただきまして
ありがとうございますm(__)m
蛇腹峠の謎が解けて、とても嬉しいです!!

15ページの写真の件ですが
八賀さんが丁寧に説明して下さっているのに
私の理解力不足で、まだ把握できていません(^_^)
自分でも、もう少し調べてみたいと思います。
こういう作業は、本当に楽しくて、時間があっという間に
過ぎていってしまいます♪
るいちゃんぱぱ URL 2012-12-04 [ 編集 ]


No title
20ページのケーブルが15ページ中央から下に延びるケーブルではないでしょうか。通洞の辺りがスタートでしょうか?右側の谷は大留というよりは六郎谷では?小中学校の下(ゴミ焼場)に大きな谷がありました。オイワレは聞いたことがありますが、通洞をずっと行ったところのようだったと思います。旧栃洞とは通洞中心ですかね?従い、真ん中の山が二十五山と思います。栃洞史の我等が郷土の栃洞絵地図ところに二十五山があり、左側が擂鉢山とありますので八賀さんの理解の通りと思います。しかし、この栃洞絵地図で光国寺から三つの山が連なりますが、第一公園、第二公園、第三公園でしょうか?第一は大きい広場ありのところでしたね(安全のネオン灯あり)。
岡崎市在住 URL 2012-12-05 [ 編集 ]


岡崎市在住 さま
こんばんは。

栃洞校史の目次の写真を見ていまして
15ページの写真と地形の様子が似ているように思いました。

やはり中央が二十五山で、右側の谷が六郎谷のように思いました。
私は、まだ〝北盛〟というのがどこなのか
理解できていません(^^ゞ

栃洞の地理で、こんなに楽しめるとは
思いもしませんでした♪

るいちゃんぱぱ URL 2012-12-05 [ 編集 ]


月明下の栃洞
こんばんは。
目次写真。我々は泉平を下から見たことはありません。
この目次の写真の右下は、泉平と聞いたことがあります。
右写真の山の中腹あたり(黒いところの境目)が小中学校。
その右写真の左から3センチあたりが六郎谷。
泉平は六郎谷下の右側になるのではと思うのですが。
対面の下あたりから撮影すると大きく見えるのではないかと?
左写真の一番右端が大ずりだし。
通洞の鉄筋アパートも見えます。

意外と栃洞を対面から眺めると全く様相が違うのではないかと思います。
いかがでしょう?いろいろ類推してみましょう。
どこかに、回答があるかもしれません。お互いの記憶の中にあります。

ただ、18Pと26Pの右下あたりに見える屋根に石を置いた家が昔の我が家と聞いております。
八賀善明 URL 2012-12-07 [ 編集 ]


八賀善明 さま
おはようございます。

目次写真も面白いですね。
確実に自分が理解出来ている場所を起点に
泉平のここの部分は、あの社宅の辺りかなと推察してみたり…。

〝おおずりだし〟というのは、もしかしたら
鉱山に関係する人口的な産物なのでしょうか?
私は、天然の地形かと思い込んでいました。
小学生の時、この〝おおずりだし〟を登って二十五山の頂上まで
行ったことがあります。
今、振り返るととても危険な事をしたと反省しています。
〝おおずりだし〟の上部には木枠のトンネルがありました。
さらに進むと林があり、そこを過ぎると露天掘りのがありました。

P18とP26の写真は、地形の面影がありますねw。
八賀さんのお宅は、私が想像していた場所でした。

〝北盛〟という場所が、私には気になっています。
ネット検索しましたら、私のブログの、私達のやり取りがヒット
しただけで、思わず笑ってしまいました。
栃洞校史P19の〝当時の生活〟の最初の部分で
当時の生活物資は、この北盛で販売されていたと記されています。
さほど山の中ではないと思われますが…。
るいちゃんぱぱ URL 2012-12-08 [ 編集 ]


八賀善明 さま 岡崎市在住 さま
おはようございます。

続けてコメントいたします。

栃洞校史P15の写真の地理配置が分かりました!!

校史の最初から5開き目に、〝我等が郷土〟のタイトルがあり
下に鹿間というか泉平下部の排滓上空からの写真があります。

この写真において
排滓水面約1.5cn上部のガケ部分。
→P15左から2cnの白い部分に相当。

通洞鉄筋アパートの下部約1cmの鉱山施設部分、またその右下に
ジグザグの歩道が見えます。
→P15ケーブルとみられる縦の白い線と
その右下のジグザグ歩道に相当。

通洞鉄筋アパート上部約1.5cmの〝おおずりだし〟部分。
→P15中央二十五山の右斜面に右下がりの2本の線に相当。

通洞鉄筋アパート右約1.5cmの鉱山グランドの下のガケ部分。
→P15右から2cmの白い部分に相当。

以上より、
1.P15の右の白い谷部分は鉱山グランド脇から泉平への
  への車道の下のガケです。
  岡崎市在住さんが、おっしゃっていらした学校のゴミ焼き場の
  下への延長となります。
  ただし、六郎谷は泉平~鹿間稜線と柏豆~乗り越し~東町稜線の
  間の谷ですので、さらに右側に位置しP15写真には写っていないこと
  になります。
2.P15のケーブルの終着地点は、鉱山軌道途中の施設付近にあり
  私達一般人は行けない場所であったと思われます。

地理的配置関係は把握できましたが
まだ、はっきりわからない事があります。 
1.〝旧栃洞〟というのは、上記よりケーブル終着地点の
   鉱山施設地域ということか?
2.〝北盛〟とはどこか?

どこかに、大留、東平、大富などの旧地名も含めた
文献・資料があるとスッキリしますね(^_^)
るいちゃんぱぱ URL 2012-12-08 [ 編集 ]


八賀さま るいちゃんぱぱ様
http://tochibora.blogspot.jp/2008/11/blog-post_22.html

このURLの地図で通洞から二十五山方面に北盛抗がありますけど。行ったことがなくて良く判りません(笑)。栃洞史に八賀さんの住んでみえたところの写真があり、羨ましいです(笑)。写真の病院は懐かしいですね。前平の第一浴場ができる前の状態と市山の坂に降りる地形がよく判ります。私の住んでいた前平銀座は現在は影も形もなく、寂しい限りです。(06年に登りました。家跡は電信柱になっていました。) よく捕まえたオニ虫(クワガタ)やニーニゼミ、ヒグラシ、チッチゼミなどは沢山いるのだろうか?因みに私の住んでいるところは山に近いので夏はヒグラシがやかましいです。(笑)
岡崎市在住 URL 2012-12-08 [ 編集 ]


岡崎市在住 さま
こんにちは。

地図を拝見しました。
ありがとうございました。
北盛や東平も記載されていて、とても貴重な資料です!!

やはり北盛は、通洞から北西方向の二十五山斜面のようですね。
私の住んでいた頃には、ガケが崩れたような風景で
栃洞校史に書かれているような、昔の物流の中心地だったとは、
とても想像できないような場所です(^_^)

ところでグーグル・アースというのを使われたことが、
おありでしょうか?
私は、昨日初めて使ってみまして
栃洞の地形が確認できて、とても感動しました。
るいちゃんぱぱ URL 2012-12-09 [ 編集 ]


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このコメントは管理人のみ閲覧できます
2012-12-19 [ 編集 ]


貴重な地図
こんばんは。
すこし?ブログの雰囲気が変わりましたね。やさしい雰囲気です。
貴重な地図があったのですね。ありがとうございます。
だいぶ?頭の中が整理されてきたようですね。
標高800メートルのどえらい!ところにいたことは確かです。
八賀善明 URL 2012-12-19 [ 編集 ]


八賀善明 さま
こんばんは。

ブログを少し、いじってみました。
最近では、ブログも趣味の1つとなってしまいました。

岡崎市在住さんから、おしえていただいた地図は
本当に貴重な地図だと思います。
こんなにネットで探しても、分からなかった事が記されているのですから。

おかげさまで、故郷にまつわる頭の中のモヤモヤした霧が
晴れてきました(^^)v
いろいろとお世話になり、ありがとうございましたm(__)m
るいちゃんぱぱ URL 2012-12-19 [ 編集 ]


北盛
今少し、聞き込みました。
北盛というのは、やはり通洞の上の方面で、
昔はこのあたりに鉱山の事務所があったようです。
その事務所が下に降りて、我々が知っている事務所になっているのですね。
”玉村鉄索”、るいちゃん言うところのケーブルようなものですが、
この鉄索が、この北盛から鹿間に伸びて、鉱石を下ろしていたようです。
通洞の上のほうを眺めれば、それらしき遺構があったはずです。
八賀善明 URL 2012-12-19 [ 編集 ]


八賀善明 さま
こんばんは。

いつも、貴重な情報をおしえていただき、ありがとうございます。
私も、その後、栃洞校史を見ていましたら
13ページに、
昔の栃洞は、二十五山の山頂付近にあり
その少し下に北盛があった旨が記されていました(^^♪
もっと、よく読んでいたら、皆さんにご迷惑を
おかけする事がなかったのにと反省しています。

私が住んでいた頃
1度も、このような案件に関する話を耳にしなかったのは
今もって不思議に感じます(笑)
るいちゃんぱぱ URL 2012-12-19 [ 編集 ]


当時の生活
13ページ!!大解決ですね。
本当に、流し読みをしていたのですね。
八賀善明 URL 2012-12-19 [ 編集 ]


八賀善明 さま
こんばんは。

前平の信用金庫の周辺は沼地だったというようなことも
書いてありますね。
八賀さんの住んでらした辺りでしょうか。

私達が暮らしていた標高850mの暮らしも厳しいものでしたが
明治時代の頃は、1200mの山の上に人が住んでいたんですね!
昭和の人間で良かったなぁと思いました(笑)
るいちゃんぱぱ URL 2012-12-19 [ 編集 ]


六郎谷
そうですね。信用金庫は“前平銀座”通りですから、
その下は沼?だったはずだと聞いています。
それにしても、小学校から、左手に焼却場を見て、六郎谷を眺め、
神岡の町を“見おろす”と、はるか下でした。
やはり、850メートルの壮観でしょうか?そして真向いに大洞山。
850メートル下に町役場がある町を見下ろせる町というのは、
そうざらにはないのでないでしょうか?
やはり下の神岡の町と栃洞は別の町でした。という感があります。
多分、下の町の神岡の小さな子たちは、幼心に、どうして山のてっぺんに、
こうこうと輝く明かりがあるのだろうと、いつも、いぶかしく思っていたのではないかと想像します。逆に栃洞の人は、どうして?見下ろす下に町があるかと?
八賀善明 URL 2012-12-19 [ 編集 ]


八賀善明 さま
こんばんは。

小学生の頃、六郎谷という名前について
その名前の由来とかがとても気になった記憶があります。
結局、分からずじまいでしたが(笑)
私の頃は、谷に背の高い木が生えていて
神岡の街の景色がジャマされてよく見えませんでした。
ただ、私は通洞のアパートに住んでいましたので
屋上から神岡のお盆祭りの打上げ花火を
眼下に見る事が出来ました。
こういう経験も貴重なものかもしれません。

向いの大洞山の姿は雄大でしたね。
夕焼けが綺麗だったり、
夏の夜中には遠くの雷の光がピカッピカッと光ったのを覚えています。

神岡町出身の写真家 中田総一郎さんのブログで
神岡の街から栃洞鉱山グランドのナイター照明の光を眺めて
映画「未知との遭遇」を連想したと書いてありました(^_^)
るいちゃんぱぱ URL 2012-12-19 [ 編集 ]


きしょおってしまいそうな。
そうでしたか。るいちゃんぱぱさんの時代は、
木が生い茂っていて、下は一望できなかったようですね。
下を見ると、怖いくらいの六郎谷にでした。
きしょおってしまいそうな。

中田さんは、情報インフラ黎明期に、中田さんのHPにアクセスし、
すこし、メールの交換をしておりました。
東京の、ニコンの写真館での??展示会。
筑波での展示会でお会いしたことがあります。
昔の、船津のバス発着停留所の対面が実家と聞いておりましたが・・・。
懐かしいですね。停留所の脇に水が湧いておりましたが。
八賀善明 URL 2012-12-20 [ 編集 ]


八賀善明 さま
こんばんは。

中田総一郎さんと、ご面識がおありとのこと
ビックリしました。
八賀さんは関東にお住まいなのですね。

google earth という立体的な地図を使われたことがありますでしょうか?
私は、先日、初めてそれで栃洞を見てみました。
景色が忠実に再現されていて
懐かしさと同時に大変驚きました。
オイワレ峠の三角山も、もちろん見ることが出来ますよ(笑)
るいちゃんぱぱ URL 2012-12-20 [ 編集 ]


No title
久しぶりにearthを見ました。感激です。
通洞の鉄筋アパートは緑の屋根になっっているようです。
鉱山グラウンド、銀嶺荘?校庭跡地、保育園がまだ緑で覆われていません。
でも、遠からず、緑全面に覆われてしまうことがおとずれるのでしょうね。
なんともいえませんね。ふるさとはなくなります。
だから、記憶に強く留め置かねばならぬと思っています。
八賀善明 URL 2012-12-21 [ 編集 ]


八賀善明 さま
こんばんは。

google earthで見た栃洞の風景には感激してしまいました。
自分が鳥にでもなったかのようで気分がイイですね♪

通洞に住んでいた頃、向かいの大洞山に登って、
栃洞側を眺めてみたいと思っていました。
また、前平の保育園の上にある〝公園〟から尾根伝いに
1本松の城跡まで歩いてみたいとかも思っていました。
どちらも、実現出来ませんでしたが
今になって、バーチャルで実現出来ました。
便利な時代になりましたね(^^♪
るいちゃんぱぱ URL 2012-12-21 [ 編集 ]


八賀様
船津のバス発着停留所の脇で水が湧いていた件、確かにあった気がしますが。しかし、もっぱら、食堂のシナそばが非常に美味しかった事を思い出します。(笑) また、神岡祭りで濃飛バスの前平行きが大勢の客で乗れず、臨時バスが出た事も思い出します。南平の停留所の名前は何でしたか?最初は和佐保前でしたか?そういえば白樺さんが私の家の前に居て、和佐保で温泉をやっていた記憶があります。温泉にも入った記憶があります。ご存知でしょうか?温泉といえばやはり平湯の神岡寮でしたね。よく家族で行きました。今は平湯の森になっていますね。
岡崎市在住 URL 2012-12-27 [ 編集 ]


白樺
岡崎在住様
すべて分かります。
白樺がキャバレー?だったのでしたね。
岡崎在住様の対面でしたね。
左ななめ方面の角、鉾木さんは?貸本屋でしたか?
神岡祭りは、かしまめから、ひがしまちまで、歩いて行ったものでした。
帰りは、岡崎さんの言うとおり、前平行きの臨時便でしょうか。
確かに、和佐保前かと思います。
そうでしたね、排滓場のわさぼのいりぐち、神社の前あたり、
あそら?の方へ行く道の下。温泉ができました。目立ちましたね。
岡崎在住様は、私より、4つくらい年下かと思います。
なんとなく、うるおぼえながら、彷彿としてまいりました。
八賀善明 URL 2012-12-28 [ 編集 ]


八賀様 るいちゃんぱぱ様
故郷は遠きにありて思うものの心境です。バンヤ坂という坂は南平から前平に登る坂でしたが、私の高校生の時に新しいバイパスが出来て無くなりました。しかし「みなんびら=南平」の子供らはどうしていたのかな?(バイパスは結構な距離があります)前平銀座(笑)は頂上の警察から始まり、左側上はお寺と保育園、右側上はお宮さん、全盛期のメイン通りで左側から前平購買部、消防署、前平第2浴場、山田さんスーパ(確か店の名前は まるや だったか?)、田口靴屋(化粧品、文房具)、田口お菓子屋、巣の内本屋、銀行、鈴木お菓子屋、上葛八百屋(精肉)、前平第2浴場、前に戻って田口お菓子屋を左に曲がると防火水槽、郵便局、珠算塾、郵便局、七福(ラーメン屋)、とお地蔵さんのある広場(ここで団子拾いがあり楽しみであった)、前のメイン通りに戻り、上口呉服店、ほこのきさん(何か商売していた筈。貸本屋かは判りません。)、吉井お菓子屋、病院(当時は入院施設もあった)、そして栃洞小中学校になります。即ち、前平には2つのお風呂屋があり、その頃は石炭燃料でしたので、黒いススが降ることがよくありました。まさしく公害問題ですね(笑)その後、お風呂屋は一つになり、石油燃化と同時にきれいなお風呂屋になりました。それは私の中学校時代です。私の高校生の時には第一公園(保育園の上の山)に行く車道がカシマメ方面から完成。もっと昔は公園も第二、第三があったと思い、前記では第一としました。購買部は通洞にいく当たりにもあり(小学校の頃)、非常にりっぱであったという印象が強く、今でいうデパートのイメージ。初めての自動販売機でジュースを買った記憶ありです。また銀嶺会館には芸能人がよく来て、橋幸夫さんが栃洞グランドでキャッチボールをしていたのを思い出します。化粧しておりとてもきれいなお顔でした。(笑)床屋の鈴木さんはお宮さんに登る当たりにありましたが、いわゆる団結小屋に移転したと思います。そこに怖い犬がいたかはよく知りません。るいちゃんぱぱ、八賀さんの栃洞の色んな思い出は何でしょうか?
岡崎市在住 URL 2012-12-29 [ 編集 ]


No title
岡崎在住様
詳細に記述していただき、本当に、ありがとうございました。
前平の賑わいが戻ったような錯覚を感じます。
なんともいえません。
いわゆる「廃墟の跡」。
かつて、昔住んでいた地があり、いまだに廃屋がありながら、
住めない地になってしまった地。
本当に、思い出がすべてです。淋しいですね。

四柱神社の祭りでは、多くのヤシが鈴木さんの床屋から両側に並び、
保育園に行く階段の近くまで並び、
最後は病院あたりまで並んでいたのを思い出します。

防火水槽の前では「ばくだん」。よく、米を持っていきました。
あのころはこれが!うまかったものです。
そして、その先に行ったところで、蛇つかいが蛇を使いながら、
ガマを売っていました。懐かしいです。

そういえば、盆踊りも岡崎在住様がおっしゃるように、「ぽぽんのぽん」でした。
仮装行列も盛んでした。細川のオッチャンの踊り歌を思い出します。
えんやさーのえんやさーのえっさっさー。子供踊りの「ぽぽんのぽん」より、
こちらのほうが、楽しかったものです。
八賀善明 URL 2012-12-29 [ 編集 ]


八賀善明 さま 岡崎市在住 さま
こんばんは。

私は、小学校1年生まで神岡の〝街〟に住んでいました。
物心がかろうじて付いた頃、前平の親戚の家に遊びに行ったことがあります。
お宮さんの下(警察の前)にロボットらしき物があった様な記憶があります。
私が栃洞に引っ越した時には、すでにありませんでしたので
もしかしたら、私の記憶違いかもしれません(笑)

それから、もう1つあやふやな小学生の頃の記憶があります。
泉平の友人の家に遊びに行き、
鹿間排滓の方に少し下った所にトンネルがありました。
人が一人歩ける幅で、脇にちょっとした水路がありました。
(結構な勢いで流れていました)
電球は点いていて暗くはなかったです。
そこをひたすら歩いて行くと和佐保の排滓に出たのです!!
いま思い返すと、夢か現実かはっきりしない記憶です(笑)
自分的には、6対4で本当にあった大冒険のような気がします(^^♪
るいちゃんぱぱ URL 2012-12-29 [ 編集 ]


No title
八賀様 
白樺さんがキャバレーだったとは初めて知りました。(笑)私の小さいときに上口呉服店に改装されました。盆踊りでの「お前百までわしゃ99まで。あっどっこいしょ」という節はよく覚えています。しかし細川のオジサンだったかは判りません(笑)。

るいちゃんぱぱ様 
素敵な思い出のご紹介有難うございました。鹿間排滓の方に少し下った所のトンネルが和佐保の排滓に通ずる!本当にありそうな気がします。 子供のころは不思議な出来事が沢山ありましたね。(^_^)

岡崎市在住 URL 2012-12-31 [ 編集 ]


No title
るいちゃんぱぱ様、初めまして
御免なさい、このブログは、るいちゃんぱぱ様のブログでしたね
八賀様と聞くと何故か懐かしい響きの名前だったものですから…
本当にごめんなさいね、此れからも宜しくお願い致します。
私は昭和19年生まれで、南平114号の社宅(長屋)で育ちました。
光円寺のすぐそばの二階建ての社宅(長屋)です。
私が小学校に入学して、すぐに大火に遭い、前平の幼児園に通いましたね
あの火事があった日の事は、今でも記憶に残っています。
幻燈会ありましたね、その幻燈会に私が行きたいと言うと
お袋が、姉が行けないから駄目だと反対されましてね(笑)
姉は中学2年でしたから行かなかったのかな?
私は泣きじゃくりながら寝ずいて、すぐだったと思いますが
お袋に起こされ、学校が火事だと知らされた時はビックリしましたね!!
姉たちが泣きながら後かたずけをしているのが今でも思いだします。
それと田口の駄菓子屋は私の叔母と従兄弟ががやっていたんですよ。
キャバレーは私の同級生の家です(笑)
私は富山市に住んでいるので
家内や息子とで10年位前に行って来ました
家なども大分痛んでいましたね
あっそれと、大富(オオドメ)の事ですが
大富(オオドメ)は交番所の前を通る自動車道を、
南平に、むかって行くとカーブあります(抗口も在り)
そこが三叉路になり、山ノ村に向かう細い道があり、
途中に大富(オオドメ)が在ったと思います。
私の子供の頃は社宅の石垣の跡やふいごで
溶かした鉄の屑などが有りましたね、その辺りはワラビがよく取れましたよ
昔(江戸の頃かなー)この谷が崩れ大勢の人が亡くなり亡霊が欲出た為に
光円寺を建てたそうらしです。この話は定かでは無いですけど。(笑)
それとアメバーのブログもやっていますから、遊びに来て下さい
GooGLでmmi5で開きます。

isida URL 2013-04-27 [ 編集 ]


isida さま
こんにちは。

はじめまして。
コメントありがとうございます!!

いえいえ、どうぞ気になさらないで下さい。
もともとは、栃洞に住んでいらした方々が
思い出をつづったり、情報を交換したりする場があったら…
と立ち上げたブログですので(^_^)

isidaさんにも、沢山の思い出がおありですね。
学校の火事の話は「栃洞学校史」という本の中で読んでいました。
ビックリされたことでしょうね。

大留地区の存在は、私が住んでいた頃は
誰の口からも聞いたことがありませんでした。
ですので、このブログを通じていろんな方から
教えていただいたことは、とっても大きな収穫です。
高円寺にまつわるお話は、これまた興味深いですね。

FACEBOOKを拝見しました。
カバー写真は、いまお住まいの富山の立山連邦ですね。
雄大で素晴らしい風景ですね♪
るいちゃんぱぱ URL 2013-04-27 [ 編集 ]


No title
るいちゃんぱぱ様
早々にお返事ありがとうございます。
私の町内には神岡鉱山出身者が5人います。
そのうち4人は栃洞出身、1人の方は大津山出身です。
栃洞校史に掲載してある新聞部の写真の真ん中に写っている
(Y)さんと一生に町内の役員を、今やっています。
町内で、富山市出身の人で
私より5歳位年上の方が神岡音頭の踊りも
歌も知っていたのには、驚きましたが謎が解けました
宮下へよく遊びにいき、覚えたそうです。(笑)
私は歌は知っているけど踊りまでは知りませんからねぇー
だって、子供は踊ってはいけませんだったからなぁ…
盆踊りはポポンのポンの方だったからね(^^♪
それにしても昔は富山から来る程、繁栄していたんだね!!
isida URL 2013-04-28 [ 編集 ]


isida さま
こんにちは。

栃洞を離れて富山に移られた方も
多くいらっしゃるのですね。

私は、岐阜県の南部に引越して住んでいます。
冬に雪の心配が無いというのが、とてもありがたいです(笑)
この辺りにも、栃洞出身のかたが
結構多くいらっしゃいます。

この辺りの年輩の方のお話をうかがうと
神岡が昔、とても繁栄していたということをご存知のようです。
神岡の隆盛は、こんな所にまで伝わっていたのかと
嬉しい気持ちになります。
るいちゃんぱぱ URL 2013-04-28 [ 編集 ]


懐かしい?響きの名前?
久しぶりの訪問です。るいちゃんぱぱ!お元気でしょうか?
今回はishidaさんの投稿があり、また懐かしく拝聴いたしました。
ishidadさん、どうもありがとうございました。
昔は、親父が定年で、あとは高山、古川か、岐阜か、富山かと思います。ishidaさんは昔でいう?上新川郡?大沢野?かと思います?
私の姉の息子が中大久保に家を構えています。
確か神岡の人が多くいるのかと思います。
同級生にishidaさんと同姓の人がいます。
ひょっとしてお兄さんですか?ヒロの漢字が同じですから。

学校の火事は、私の生まれた年でした。
八賀善明 URL 2013-04-30 [ 編集 ]


岐阜南部
私の叔父が、揖斐郡池田町でした。
このあたり、栃洞出身の方が多いと聞いております。
るいちゃんぱぱもこのあたりではないでしょうか?
とにかく雪がないというのがいい!
というのが栃洞出身の方がよく感慨深げに言うことですね。
八賀善明 URL 2013-04-30 [ 編集 ]


八賀さま
こんばんは。

お久しぶりです。
お変わり無いでしょうか?

少しずつですが、いろんな方と
つながりが出来ていって、私も嬉しい限りです。

高山や国府町の辺り
そして富山県に移られた方も多いようですね。
池田町にもいらっしゃるということは知りませんでした。
私は、もう少し東の方に住んでいます。
やはり団地が多くて
栃洞にいらした方が多くみえますよ。

先日、栃洞の思い出を綴るブログを立ち上げました。
タイトルは「二十五の峰、空高く♪」です。
よろしかったら、覗いてみてくださいね
http://ruichanpapa0705.hatenablog.com/
るいちゃんぱぱ URL 2013-04-30 [ 編集 ]


「二十五の峰、空高く♪」
拝見しました。
今後は、こちらのほうを「栃洞の思い出」ホームにします。
八賀善明 URL 2013-04-30 [ 編集 ]


八賀善明 さま
おはようございます。

少しずつ書き留めていきたいと思いますので
よろしくお願いいたします♪
るいちゃんぱぱ URL 2013-05-01 [ 編集 ]


No title
八賀様初めまして、るいちゃんぱぱ様こんばんは
八賀様が言われたように弟だと思います。
私と弟と年の差は7歳違います。
弟は27年生まれですが2月生まれなので26年と同級生になりますね?
親父は定年に為ったので、中学途中で大沢野中に編入しました。
姉、私、妹は栃洞卒ですが、一番下の弟は小学校で編入したので、
大変だったと思いますね(言葉が違うから)(笑)
私はその頃は東京の専門学校へ通っていました。
うるおぼえですが、八賀さんと言う名前の方で
私よりもだいぶん年上の方でおられた様な気がするんですが…
私の記憶違いだったら、御免なさい。
私の事は此の位にしておいて…

私も「二十五の峰、空高く♪」拝見しました。
私も、今後は、こちらのほうを「栃洞の思い出」ホームにしていきます。
isida URL 2013-05-03 [ 編集 ]


isida さま
おはようございます。

みなさん、世代は少しずつ違いますが
お互いが知っている共通の方がみえたりして
輪が繋がっていきますね♪

栃洞の記憶をたぐり寄せながら
少しずつですがアップしていきたいと思いますので
「二十五の峰、空高く♪」
また、覗いてみてくださいね(^_^)
るいちゃんぱぱ URL 2013-05-03 [ 編集 ]


no title
るいちゃんぱぱ様今晩は。岡崎在住様に教えて戴いて、このブログに寄せていただきました。大変な情報量ですね。私の乏しい脳ミソが興奮して舞い上がっております。isida様とはほとんど同世代とおもいます。昭和32年迄の子供の記憶ですが、前平銀座に根本の夫(ねもとのおっと)と呼ばれる方がおられ、悪いことをすると根本の夫に拐われると脅されたものです。大柄で酒飲みの人だったとおもいます。ところが立て坑(ケージ)で事故があり鉱山従業員が墜落死したときに、その根本さんが1人で立て坑を降下し亡くなられた方を背負ってケージを登って来られ、皆さんが認識を変えられたと聞いたことがあります。これは伝聞なので、狭い前平での都市伝説かもしれません。
チョコマカ君 URL 2014-02-14 [ 編集 ]


チョコマカ君 さま
こんばんは。
こちらのブログにもお立ち寄りいただき
ありがとうがざいました。
栃洞の事が懐かしく思い、記事に取り上げてみましたら
こんなに沢山のコメントをいただき
それでは!!と栃洞のブログを立ち上げた次第です♪
根本の夫さんのお話を拝見しまして
何だかワクワクしてしまいましたw。
私の知らない栃洞がまだまだあって
ブログをやっていて本当に良かったなと感じました。
まさに栃洞の都市伝説ですね(^^♪
るいちゃんぱぱ URL 2014-02-14 [ 編集 ]


郷愁
私は昭和24年生まれ。今年6月に二つ年下の妹夫婦と、87歳になる母を連れて、栃洞に行きました。私が小学4年の時に、父(警察官)の転勤で栃洞に行ったのです。母も先が短いし、私も昔住んでいた所が懐かしくて皆が元気なうちにと思って実行しました。
全く私の頭の中にある風景は見られずがっかり。
このブログを見ても私の住んでいた場所は見当たりません。
前平と言うところに住んでいました。小学校に行く道の左側の階段を上り二列目か参列目くらいの左の社宅みたいな所で、階段の一番上には、プールみたいなものがありました。
雪が降った時は、社宅の左の方に細い道があり、そこでそりですべっていました。スキーを持ってなかったので。
冬の朝早くに電気がついたり消えたりすると、閉校になっていました。
学校に行く途中の、道の左側に銭湯があったように思います。
つきのわぐまが、そのあたりに射殺されて大の字に転がっていたのを記憶しています。
学校は道から見ると、下にあった気がするのですが、先日行った時は、全くどの辺がそうなのかわかりませんでした。色んなブログを見ても古い前平地区の写真がないので、とても寂しいです。
そういえば同級生にお寺の子がいて、時々遊びに行ってらくがんのお菓子を頂いた記憶があります。家からは少し離れていたと思いますが、どこだったんでしょう?
みちくさみっちゃん URL 2014-07-03 [ 編集 ]


みちくさみっちゃん さま
こんばんは。
コメントいただき、ありがとうございます♪

前平に住んでらっしゃたのですね。
いまでは、ほとんど建物が無くなってしまって
記憶の中の景色とは随分と違っていたことでしょうね。

栃洞という場所には
私も何故か特別な感情があります。
それだけ特別な空間だったのかもしれませんね。

私は通洞という地区に住んでいましたので
前平の道には詳しくはないのですが
〝二十五の峰、空高く♪〟という私のブログで
みちくさみっちゃん様のコメントを掲載してみたいと思います。
前平出身の方が、よくコメントをくださるので
もしかしたら、みちくさみっちゃん様のご記憶が
もう少し鮮明になるかもしれませんね。
URLはこちらです
http://ruichanpapa0705.hatenablog.com
よろしかったら、のぞいてみてくださいね(^^♪
るいちゃんぱぱ URL 2014-07-03 [ 編集 ]


るいちゃんぱぱさま
早速”二十五の峰 空高く”に掲載して頂きありがとうございます。
いくつかの情報をすぐに寄せてくださって 感謝!感謝!です。
私も年を取ったのか昔をすごく懐かしんでいる今日この頃です。栃洞には一年間いただけなんですが、なぜだかすごく懐かしいです。昨日のコメントに閉校と記しましたが、休校の誤りでした。
栃洞の次は神岡に転校しました。船津高校の近くの警察の官舎(四軒長屋)にいました。
その年伊勢湾台風が来て、枕元に教科書の入ったリュックが置いてあり、なかなか寝付かれなかったのを覚えています。
先月神岡を訪れ、官舎のあった辺りに行きましたが、アパートが二棟建っていました。
帰り道、公園にいたお年寄り(80代)に聞いたら、警察のアパートだとか。
私の記憶はあっていた。
突き当たりに高校があったはずと思い、探索に・・・。
消防の方が見えたので、聞いたらやはりここにあったということでした。体育館だけはありました。
この辺りに銭湯があったんだがと思い、公園にいたおじいさんに尋ねたら、駐車場を指差して、”そこにあったよ”と教えてくださいました。
神岡を後にして、栃洞に向かったのです。頭の中にある景色が、ほとんどない前平がどうしても恋しくて、何度も皆さんが撮られた写真を眺めています。
みちくさみっちゃん URL 2014-07-04 [ 編集 ]


みちくさみっちゃん さま
おはようございます。

お父様のお仕事の関係で、いろんな所にお住まいだったのですね。
その中でも栃洞の印象は強烈ではなかったでしょうか(笑)

私のかすかな記憶の中に
駐在所前のバス停の横にロボットがあったように思います。
いつの間にか無くなってしまいましたが…。

懐かしいですね、船津高校の大島校舎。
確かに銭湯もあったような記憶もあります。

「二十五の峰 空高く♪」のブログの方に
その後も続々と沢山のコメントをいただいています。
よろしかったら、見てみてくださいね。
懐かし楽しい情報もありますよ(^_^)
るいちゃんぱぱ URL 2014-07-05 [ 編集 ]