二十五の峰、空高く♪

~標高850mの故郷 『栃洞』の想い出~

みちくさみっちゃんさんの思い出

私のFC2ブログの方に子どもの頃、栃洞に住んでらした〝みちくさみっちゃんさん〟という方からコメントをいただきました。 前平にお住まいだったとのことですが私は通洞に住んでいましたので十分なお答えが出来ませんでした(笑) どなたか〝みちくさみっち…

乗り物酔い

栃洞っ子にとって乗り物酔いは大きな悩みの1つではなかったでしょうか。 私も子どもの頃、それがイヤでイヤでたまりませんでした。 神岡の街に遊びに行く場合行きは徒歩で良いのですがさすがに帰りはバスに乗るしかなくて…。バス遠足の時も心配でした。 ま…

子ども獅子

通洞地区の子供会では春のお祭りに獅子舞を行っていました。 3月末から1か月間、夜は集会場で練習。 写真は、昭和47年(1972年)4月24日通洞の〝火の見やぐら〟横の階段を登った所の広場での撮影です。 この写真を見るまでは、写っている方々と「何処か…

六郎谷

栃洞小中学校の体育館の西道路ガードレールの向う側に六郎谷という谷が口を広げていました。 この少々こわい印象をいだかせる名前の由来はわかりませんが、栃洞だけで通じる俗称ではなく神岡のまちでも使われている名称のようです。 私が住んでいた頃は、背…

グーグルアースで栃洞訪問

栃洞へ行きたいと思ってもなかなかそうはいきませんので時々、グーグルアースで栃洞を訪問しています。 空の上のいろんな角度からまるで鳥になったような気分で栃洞を眺め 住んでいた時には行けなかった場所の地形なんかも知ることが出来ます。 人の営みの無…

夏休みの小旅行

夏休みになると高山市奥飛騨温泉郷(旧吉城郡上宝村)平湯温泉にある会社の保養施設に行くのが我が家の恒例行事でした。 今から考えると、とても近い場所なのですが当時の私にとっては、とても遠くまで行くように感じていました。 高原川沿いを走るバスの車窓…

下校の音楽

栃洞小中学校の下校時にかかっていた音楽。曲名を知らなかったのですがふと気になってネットで調べてみました。 ドボルザーク「新世界より」家路という曲でした。 曲の出だしの部分を聴いただけで夕暮れ時の校庭の風景を思い出します。 ドヴォルザーク 交響…

56豪雪

昭和55年末から翌56年(1980~1981年)にかけての冬は大変な大雪となりました。いまでも〝56(ごーろく)豪雪〟は語り草となっています。 当時、私は南平に住んでいましたが前平の栃洞小中学校は下の写真のような状況でした。 1月に岐阜まで行かなければ…

年越し

栃洞に住んでいた頃、我が家の年越しはとても淡々としたものでした。まだ明るいうちにお風呂を済ませて夕飯は17時ころからいただき…。 19時からCBCでレコード大賞をそして21時からはNHKの紅白歌合戦を見て…。紅白も後半戦になると大御所の演歌歌…

乗越(のりこし)

神岡の町から二十五山の方向を見上げるとラジオの中継所の高い塔(アンテナ?)が見えます。また、東町から前平までの歩き道の途中、その場所を通ります。 太平洋戦争下の食糧事情を改善するために開墾されたようです。 秋から冬に移り変わるこの時期前平から乗…

学級文集

毎学年、3学期になると学級文集の準備に取り掛かりました。 何という名称の用紙か分かりませんがボールペンで引っかくようにして文字を書きました。間違えると修正液の出番。 用紙、修正液、インクのヘンなにおい…。何年たっても私の鼻が憶えている栃洞小学…

山之村(やまのむら)

神岡の街は、岐阜県飛騨地方の1番奥にあるというのに栃洞は、そこからさらに山を登った所にあり…。その栃洞より桁外れに山奥に入った所に「山之村」という集落があります。 学校の遠足でも伊西トンネルをくぐりその山之村の伊西地区にある牧場へ行きました…

栃洞小学校の修学旅行

小学生にとって6年生の修学旅行は低学年の頃からの最大のワクワク行事でした。私の時の行先は三重県の伊勢。 先生からは事前にこんな注意事項が言い渡されました。 「よその人から〝どこから来たの?〟と聞かれたら栃洞と言っても通じないから〝高山の近く…

大洞山

鹿間谷の向こう側にある大洞山の特に秋の夕焼けはとても綺麗でした。 中腹に灯っている電球が何の為にあるのかが不思議だったり大洞山に登って栃洞方面を眺めてみたいと思ったりしました。 最近では、グーグル・アースというものがあるのでパソコン画面でも…

夏を締めくくる霧

毎年8月の後半、夏の高校野球も終る頃、通洞から見る二十五山の上部を北から南にサーッ流れるような霧がかかる日がありました。 もしかしたら、これが〝笈破(おいわれ)霧〟と呼ばれるものかもしれませんが半袖では涼しい程でした。 栃洞の短い夏を締めくく…

孔雀坂(くじゃくざか)

私の頃は、孔雀坂という地名が会話に出てくることがほとんどありませんでした。ですから、どの辺りが孔雀坂かという認識も曖昧です。 イメージ的には、前平から通洞へ向かう途中、組合事務所、床屋さん、前平バス停付近の樹木の生えていないエリアではないか…

学校給食

給食当番になると木製の箱に入ったガラスビンの牛乳は重く教室まで運ぶのが大変でした。 鯨肉を甘辛く味付けしたものは私の一番の大好物でした。 ミートスパゲッティの麺は少し細めの〝うどん〟のようでしたが、これも楽しみでした。 夏ミカンは、酸っぱ過ぎ…

ケーキ

小学校の時、子供会というものがありました。 12月には通洞集会所でクリスマス会が行われ終了後、1人1人にショートケーキが配られました。 それが、生まれて初めて食べた「ケーキ」でした。 正直なところ、テレビとかで大騒ぎするほど美味しい物ではなく…

栃洞に引越すことになって

私は小学校1年生の2学期まで神岡の〝まち〟に住んでいました。 その頃の栃洞の印象は勉強がデキるとか、足が速く運動能力がスゴイとか…とにかく優秀な人が沢山いる。〝人〟に関するイメージが強かったのを憶えています。 でも実際引越してみたら、吹雪とい…

排滓

いま思い返すと夢なのか実際にあった事なのか曖昧な栃洞の記憶が1つあります。 それは、泉平に住んでいた同級生とその弟と3人、泉平の社宅のさらに下った所から和佐保の排滓までトンネルを歩いて抜けた事です。 トンネルは人が1人立って歩ける大きさ。裸…

新聞

私は通洞に住んでいましたので新聞が届くのは、毎朝午前9時少し前でした。 それでも、子どもの私にとってその日の夜に何のテレビ番組をやるかさえ分かれば良かったので十分に用は足りていました。 夕刊は何時に届いていたのでしょうね。最終バスが前平に着…

神岡の〝まち〟

栃洞に住んでいる人達は、神岡の市街地を〝まち〟と呼んでいました。 小学生の頃、友人と〝まち〟に遊びに行くのが楽しみでした。行きは下りなので、樫豆か泉平ルートで徒歩。 当時、本町通りに「神岡ショッピ」が出来て無駄にエレベーターで上ったり下りた…

タニザワトモフミさん

神岡町出身の方だそうです。 『君に届け』というアニメのテーマソングをリリースされたりしてご活躍中です。 現在は世界放浪の旅(?)に出られているとか。同じ地元というだけで応援したくなりますね♪ 「きみにとどけ♪/タニザワトモフミ」 [PV] きみにとどけ…

電話

私が小学校低学年の頃はまだ、家に電話がありませんでした。たぶん、栃洞の社宅に住んでいる方、みなさん同じだったと思います。 それでも神岡の街から遠い栃洞ですから急用の電話がかかってくるとお風呂を管理されている方の所に電話がかかってきて家まで呼…

『飛騨の神岡』

小学校低学年の頃に学校で配付された社会科授業の副教材『飛騨の神岡』をまだ捨てることなく大事に持っています。 町の教育委員会編集のもので神岡町の自然・歴史・地理・産業なんかが載っています。 自分にとっては古文書級のお宝のつもりですが案外、みな…

鉱山グランド

私の学年(と言っても学年1クラスだけですが…)は野球好きが多かったので、土曜日の半ドン授業が終わると午後から、よく鉱山グランドで野球をやっていました。 ライト側が狭く、レフト側が妙に広かったのですが良い言い方をすれば、メジャーリーグスタイルの…

公園

前平の栃洞保育園の辺りから少し登った所に〝公園〟がありました。 風景の記憶が曖昧なのですが家族で出掛け、お弁当を食べたことがあります。確か柏豆方面からは車道が通じていたと思います。 中学、高校になってからは1度も行っていないのでいまの私にと…

そろばん塾

前平の郵便局の近くにそろばん塾がありました。周りの友達が入っていたので、小学校3年生の晩秋、つられて私も入塾。 寺子屋風の古い木の机と石油ストーブの温もりが記憶にあります。そして、おのおの好きなスナック菓子を買って持ち寄って食べていました。…

11月

栃洞で暮らしていて最も寒く感じたのは何月でしたでしょうか? 私は雪が降る直前の11月でした。もちろん気温的には12月~2月が最も低いのですが…。 11月の夜、南の空のシリウスの青白い輝き。11月の冷たい雨の日、濡れた落ち葉の匂い。 いよいよや…

自転車

栃洞において、自転車ほど利便面での双方向性に欠ける交通手段はありませんでした。 坂道ばかりなので、行きが下りなら帰りは登り。行きが登りなら帰りは下り。 ブレーキをかけるか押して歩くかでペダルを踏んで走るという機会が少な過ぎました。そのおかげ…