二十五の峰、空高く♪

~標高850mの故郷 『栃洞』の想い出~

神岡の〝まち〟から見る二十五山

5月10日、久し振りに神岡へ行ってきました。

栃洞へは行きませんでしたのが

神岡の〝まち〟から撮った二十五山の写真を数枚。

 

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神岡小学校から

 

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神岡中学の下から

 

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神岡大橋から

 

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藤波橋から

 

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大津神社から

 

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小萱から

 

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鹿間から乗越平のCBC中継アンテナの先っぽ。

 

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 最後に神岡小学校からのアップ写真です。

マラソン大会

学校行事の中で最も憂鬱だったのが
秋に行われるマラソン大会。

校庭をスタートし、銀嶺会館の前を左に曲がります。
左手に〝理科園〟右手に〝六郎谷〟を見ながら
最初の難所〝いちやまの坂〟を登覇。
坂を登り切った高い石垣の前を右折し
柏豆地区までの長い登りが続きます。
柏豆の一番奥の社宅の前で折り返し
今度は長い下り坂が足にきます。
前平のお菓子屋さんのT字交差点を左折し
学校玄関前を通過します。
通洞方面へ向かい〝孔雀坂〟を通過し
コースの最高地点に到達。
通洞の1番奥から〝鉄筋アパート〟横を下り
〝鈴木の床屋さん〟の前を通過し
校庭でのゴールとなります。

もともと長距離走が苦手で
息苦しいは、寒くて耳がちぎれそうに痛いはで…
そのせいか、いまでもジョギングはやりません。

何年か前に、草津温泉に行き
近くの白根山にも寄りました。
駐車場から頂上まで少し登る遊歩道があるのですが
たいした登りでもないのに
周りの人達は息使いが荒く、足取りも重いようでした。
私は何ということもなく
「空気が薄いせかなぁ?」と不思議に思いました。

いま思うと、標高の高い栃洞での生活
そして、あの憂鬱でたまらなかったマラソン大会の
賜物なのかもしれないなぁと
ひとり、ご満悦な気分でいます。

心の中の白いボール

栃洞小・中学校の私の学年では
野球がとても流行っていました。

いつものメンバーは
しょーじ、たこじん、てんや、のっぽ
いだっけ、もり
やーとひー、けっぺ、かっぺ…という面々

土曜日は学校が半ドンでしたので
午後から鉱山グランドで練習。
授業の間の休み時間も
校庭や体育館でハンドベース。

神岡の〝まち〟の東小や西小とも試合をしました。
中学になるとナイターで先輩チームとも試合をしました。

あの頃は、大きな目標や
すごい向上心があるわけでもなく
ただただ野球が楽しくて
たった1つの白いボールを追いかけていました。

おとなになって社会に出て
仕事中心の忙しい生活の中で
いつの間にか
時間や結果に縛られることが
当たり前になってしまいました。

このことを後悔しているわけではありませんが
少し気持ちにも余裕が出てきた年齢にもなり

あの頃のような〝ただ素直に楽しむ〟
そんな気持も大切だなと感じるようになりました。

あの時一緒に野球をやってたみんなは
心の中の白いボール
まだ持っているのかなぁ。

SNOW AGAIN

寒い季節がやってくると

いつもより増して、寒く雪深かった
生まれ育った故郷を思い出すことが多くなります。

移り住んだ現在の場所での生活の方が
もう随分と長いのに。

まるで何か忘れ物でもしてきたような不思議な感覚です。

 

森高千里 『SNOW AGAIN』 (PV) - YouTube

栃洞小中学校 応援歌

近所に小学校がありますので
9月下旬頃になると
運動会の歓声や音楽が聞こえてきます。

栃洞小中学校の運動会は
小学生低学年の頃は鉱山グランドで

中舎が撤去された後は
広くなった校庭でで行われました。

私は第一と第二
2つある応援歌がとても好きでした。

今でも歌えます。

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栃洞校史より転載
(編集:栃洞小学校閉校記念実行委員会記念事業部)

通洞と泉平の社宅廃止

オイルショックという出来事の数年後からでしょうか
しだいに〝合理化〟という言葉も耳にするようになり
子ども心にも何か良くない状況を感じた記憶があります。

そして1979年
私が住んでいました通洞地区と泉平地区の社宅が廃止されました。

私は南平に引越しました。
物産の横、火の見櫓近くの2階建て木造社宅。

通洞が無くなったことより
意外に快適な南平の生活が嬉しかったりもしました。

でも、いまになって思います。

春の雪解けのにおい
夏の朝の涼しい空気
秋の大洞山の夕陽
冬の猛烈な吹雪

一瞬だけでもいいので
もう1度、あの時に戻りたいです。

一本松

神岡の街の東側、栃洞から南方向に屏風のように
連なる尾根があります。

栃洞行きのバスは、その南端にある鞍部を通り
尾根の反対側へと進みました。

ちょうどその場所にあった「一本松」という名前のバス停が
強く印象的に残っています。

ここには戦国時代の江馬氏の山城「高原諏訪城」があり
実際に1本の松が存在していたとのことです。

私は小学生の頃、この「一本松」がどうしても気になって
行ってみたことがあります。
それは栃洞から行ったのか、神岡の街から登ったのか
まったく記憶が無いのですが…。

ただ、行ってみたはよいものの
お宝どころか何にも無くて
期待外れ感が大きかった思い出があります。

子供にとっては
歴史的な価値とかは関係ないようですね。

それと、もう1か所。
「一本松」から栃洞方面に少し進んだ場所
排滓の堤の近くに「サイクロン」というバス停がありました。

何年間もバスを利用しましたが
そこで乗降する人を1度として見た事はありませんでした。